時代裂(じだいぎれ)の研究者であり作家としても活躍している鈴木一弘さんが、先日最後の個展を開催しました。
最新作は珍しい技の融合でした。
1.茶の湯の裂地展
①最後の個展
鈴木一弘さんは今年74歳。
刺繍を施すための生地を自ら織る鈴木さんですが、加齢による視力の衰えで1ミリの方眼紙を見たり、紗の生地の隙間を見たり、機織りの筬(おさ)に糸を通すことが難しくなってきたため、作家を引退する決断をしたそうです。
最後の個展は新宿の柿傳ギャラリーで開催されました。(令和6年(2024年)6月25日-30日)
②鈴木時代裂研究所
鈴木時代裂研究所については今まで何度か当ブログでご紹介してきました。鈴木一弘さんは二代目の所長です。
▼過去の記事
祖父の鈴木繁太郎氏が大正時代に始めた裂(きれ)の蒐集(しゅうしゅう)と研究を、父の一(はじめ)さんが引き継ぎ、昭和60年に鈴木時代裂研究所が設立されました。そして鈴木一さんは息子の一弘さんと共に数多くの名物裂の復原を行いました。
鈴木家は親子三代にわたり裂の蒐集と研究、復原をしてきましたが、さらに一弘さんは復原した時代裂を使ったオリジナルの作品を次々と生み出しました。
青磁の花瓶に復原した裂を象嵌(ぞうがん はめ込むこと)した「青磁裂象嵌花瓶」
(令和3年6月 新宿京王ギャラリーでの個展より)
花瓶に染織品をはめ込むのは過去にはなかった技術だそうです。
2.時代裂とは
①名物裂とも
時代裂とは、鎌倉時代から江戸時代初期に主に中国から渡来した高級絹織物の総称で、武家や社寺、茶人に珍重されました。名物裂ともいわれます。
金襴(きんらん)・緞子(どんす)・間道(かんどう)・更紗(さらさ)・竹屋町(たけやまち)などの種類があります。
②金襴(きんらん)・緞子(どんす)・間道(かんどう)
以前にもご紹介しましたが、『名物裂事典』に掲載されている裂です。
上から金襴・緞子(純子)・間道
出典:鈴木一(2007)『名物裂事典』鈴木時代裂研究所
この三種の見分け方を、鈴木さんはよく次のようにおっしゃいます。
見分け方は至って簡単で、金襴はキラキラ、緞子は二色、間道は縦縞、と覚えてください
また、時代裂が如何に貴重なものだったかを、以前鈴木さんがこのように説明していました。
古い茶会記を調べると、1608年に「切地」という言葉が登場するそうです。
1700年代、名物裂の「富田金蘭(とみたきんらん)」は60cm×40cmの裂が現代の価格で2500万円だったそうです。
一方、利休の茶杓はその10分の1。名物裂の袋(仕覆)になると、茶入れよりもずっと高価になるというわけです。
現代でも仕覆は重く扱われるものですが、当時の武家や茶人たちが舶来の布で作った小さな袋に夢中になっていた様子を想像するとなんだか面白いですね。
③竹屋町裂(たけやまちぎれ)
竹屋町とは、紗の生地に金箔紙と色糸で文様を縫っていく刺繍の一種で、とても希少な裂です。鈴木さん親子は、竹屋町裂の復原にも取り組みました。
訪問着などで普通の生地に竹屋町刺繍が施されたものもありますが、時代裂としての本来の竹屋町は紗の生地を使ったものだそうです。
3.当日の展示品
①最新作
鈴木さんの最新作です。
自身で織った紗の生地に〈竹屋町刺繍〉と〈印金*〉という高度な技術を融合させ、一枚の帛紗(ふくさ)に仕上げました
*印金……「型紙を生地の上に置き、その上からへらで生地に糊(にかわが主体)を付着させた後、型紙をめくります。糊が付着した生地の上に金箔を静かに置きます。」
(展示の解説より)
裏はきらびやかな印金で牡丹唐草が……
薄暗い茶室にさぞかしよく映えることでしょう。
鈴木さんのお話では、印金で苦労するのは薄くて軽い金箔の扱いだそうです。鼻息だけで飛んでしまい、それがどこかにくっつけば使えなくなります。
あ~またこれで何千円分かの金箔が無駄に……という失敗が何回もあったそうです。
②形を変える布たち
時代裂は形を変えて私たちにアピールしてきます。
輸入された当時の貴重な裂はそのまま鑑賞したり、ふくさや茶入れの袋(仕覆)を作るだけだったと思われますが、復原された布たちはバッグやポーチ、帯やネクタイとなって私たちの前で輝いていました。
③伊藤博文を魅了した格天井更紗(ごうてんじょうさらさ)
これは伊藤博文公が所持していた帛紗が元になっている格天井更紗(ごうてんじょうさらさ)
で木綿製です。
このモダンな更紗のふくさは母のお気に入りでした。父はこの模様のネクタイを好んで締めていました。
帯になると使用する生地が多いので迫力も増しますが、決して目立ち過ぎない落ち着きがあります。
洒落袋帯なので紬から無地、付け下げなどにも合いそうです。
これは綿ですが、この展示会のために作られた同柄の絹製の袋帯は、当日友人の元にお嫁入りしました。(*^_^*)
鈴木さんは「写真を撮るならここで」と、お父様、お祖父様の作品の前を選ばれました。
今回の個展には、初めてお祖父様の遺作が展示され、また、お父様の作品の展示コーナーも別に設けられていました。
次回ご紹介します。
一弘さんはこの個展を終え、作家としての一弘という名前から本名の一洋に戻られました。
作家は引退しても研究は続けられ、京都の鈴木時代裂研究所とその中のコレクションルームの公開は存続されるそうです。