先日大倉集古館の新春特集展示を見てきました。
大倉集古館は昨年秋にホテルオークラとともにリニューアルされました。
初春を祝うおめでたい展示でした。
1.大倉集古館とは
①日本初の私立美術館
大倉集古館は明治から大正時代にかけて活躍した実業家・大倉喜八郎が設立した私立美術館で、
東京都港区虎ノ門にあります。
説明資料によると、日本初の私立美術館とのことです。
△大倉喜八郎(1837~1928)
大倉喜八郎は天保8年新潟の商家に生まれ、17歳で江戸に出ました。
鰹節屋の丁稚奉公→乾物屋→鉄砲商→貿易、土木建築業→(欧米視察)→大倉組商会設立
というように成功を納め、鹿鳴館や帝国ホテルを建設した人です。
また社会、教育、文化活動も活発に行い、大倉財閥を創立しました。
(『大倉集古館への誘い』大倉文化財団・2019年発行より抜粋引用)
②収蔵品
大倉集古館は約2500件の美術・工芸品を収蔵しています。
所蔵品は日本・東洋各地域の絵画、彫刻、書跡、工芸など広範にわたり、国宝3件、重要文化財13件、重要美術品44件が含まれます。
(参考:大倉集古館パンフレット)
△国宝「普賢菩薩騎象像」 (平安時代・12世紀)(展示会チラシより)
③歴史とリニューアル
大倉集古館の歴史は明治時代にさかのぼります。
- 1902年(明治35年)
大倉邸の一画に「博物館」と称する建物が母屋に接続して建てられる - 1917年(大正6年)
「財団法人大倉集古館」が大倉邸の敷地の一画に開館 - 1923年(大正12年)
関東大震災によって当時の展示館と一部の展示品を失い閉館 - 1928年(昭和3年)
建築家伊東忠太の設計による耐震耐火の中国風の展示館が完成し、再開館 - 昭和30年代
ホテルオークラ東京の建設のため一部の建物が解体 - 1998年(平成10年)
陳列館が登録有形文化財(建造物)に登録される - 2014年(平成26年)
ホテルオークラ東京本館の建て替えに伴う施設改修工事のため長期休館 - 2019年(令和元年)
大倉集古館再開
(『大倉集古館への誘い』大倉文化財団(2019年発行)、ウィキペディアより抜粋引用)
大倉集古館は、5年半にわたる増改築工事を終え、2019年9月12日にリニューアルしたばかりです。
このリニューアルに合わせて、国の登録有形文化財に登録されている建物の外観はそのままに、免震構造の地下階を増築しました。
地下1階ロビーには展示の他、タッチパネルや説明用モニター、ミュージアムショップがありました。
④アクセス
東京メトロ日比谷線 神谷町駅から大倉集古館までの行き方をご紹介します。
神谷町駅虎ノ門方面改札口を出たら、4b出口へ
出口を出たら右に曲がり、交差点を左へ進みます。
上り坂を直進します。
正面に見えるのは「ホテルオークラ東京別館 」です。
道なりに右へ上ります。
緑の屋根の大倉集古館が見えてきます。
神谷町駅から大倉集古館へは緩やかな上り坂が続きますが、徒歩7~8分でわかりやすいです。
2.ホテルオークラも新しく
①ホテルオークラとは
大倉喜八郎の長男で、大倉財閥の二代目である大倉喜七郎によって設立されたのが、大倉集古館に向かい合うホテルオークラです。(1962年開業)
△大倉喜七郎(1882~1963)
喜七郎は明治15年生まれ。17歳でイギリスに渡り、ケンブリッジ大学に留学しました。
7年の海外生活でヨーロッパの社会・文化・スポーツへの理解を育て、戦前は帝国ホテルの社長を務め、戦後は「和洋の調和」をめざしたホテルオークラを設立しました。
また、父の志を継いで古美術の蒐集に力を注ぎ、集古館の復興と運営に尽力しました。
(『大倉集古館への誘い』大倉文化財団・2019年発行より抜粋引用)
②歴史とリニューアル
ホテルオークラは、「帝国ホテルを超えるホテル」をコンセプトに設立されたホテルだそうです。
- 1958年(昭和33年)
大成観光株式会社として創立 - 1959年(昭和34年)
ホテル名をホテルオークラと決定 - 1962年(昭和37年)
ホテルオークラ(現ホテルオークラ東京)が開業 - 2019年(令和元年)
新本館開業
(ウィキペディア「ホテルオークラ」より抜粋引用)
△以前のホテルオークラ本館(ウィキペディア「ホテルオークラ東京」より)
ホテルオークラは、大倉集古館と同じく2019年9月12日に本館建て替え工事が終わり、リニューアルオープンしました。
名称は「The Okura Tokyo」に変わりました。
「オークラ プレステージタワー」と「オークラ ヘリテージウイング」の2棟で構成されています。
大倉集古館正面入口の向かい側は「オークラ プレステージタワー」です。
大倉集古館を裏側から見ると屋根の向こうにホテルがそびえ立っています。
右のビルは41階建て「オークラ プレステージタワー」、左のビルは17階建て「オークラ ヘリテージウイング」です。
喜八郎と喜七郎二人の偉業を見ることができる場所でもあります。
△大倉喜八郎(左)と喜七郎(大倉集古館パンフレットより)
3.新春特集展示 能と吉祥「寿ーKotohogiー」
新年を寿ぎ、能装束や工芸を中心に吉祥文様が表されている作品の展示でした。
△大倉集古館入り口にて
23点の展示品はどれも興味深いものでしたが、その中から少しご紹介します。
①初公開の掛軸3幅
大倉集古館が近年所蔵品に加えた日本画で、能の石橋(しゃっきょう)を描いた三幅一組の掛け軸になっています。
△鈴木守一(すずき しゅいつ)筆「石橋(しゃっきょう)・牡丹図」(江戸~明治時代・19世紀)(絵葉書より)
獅子の面と赤頭を付けた石橋のシテが 力強く激しい舞を見せている中、両脇に控える牡丹の生花はあくまでも優しく美しく咲き誇っています。
能の舞台では、作り物(大道具)の牡丹の花は、大きいだけで乾いた感じですが、この絵は艷やかでみずみずしく、獅子は牡丹の中を舞遊ぶ妖精のようです。
能では重い曲とされ、見る側も緊張してしまう「石橋」ですが、本来は、文殊菩薩の使者である獅子が牡丹と戯れながら舞を舞い、世を寿ぐ、というおめでたい場面なので、こちらの3幅の絵の世界感が正しいのだと気付かされました。
②蒔絵の香箱
△「松竹梅蒔絵十種香箱」(部分)(江戸時代・18世紀)(『大倉集古館への誘い』大倉文化財団・2019年発行より)
展示説明によると、香道具一式が納められたこの蒔絵の箱は、元禄時代漆芸の粋を集めた作品で、大倉喜七郎夫人の嫁入り道具だったそうです。
香道具の一部の銀部分は色が少し沈んでいましたが、塗と蒔絵は今も輝きを放っていました。
③能装束
△紅地檜扇菊梅模様縫入長絹(江戸中期・18世紀)(展示チラシより)
若い女役が舞を舞うときに用いる上着で、透ける紗の生地に模様を織り出しています。実際は写真より透け感が強く、色も鮮やかです。
きものの五つ紋にあたる所に大きな檜扇と菊の折枝文が配置されています。江戸時代の作品とは思えないほど、扇と梅の意匠が可愛らしくモダンなので驚きました。
生地に少し傷みはありましたが、梅、菊、檜扇のおめでたいデザインは現代でも注目されるような斬新さで、昔の大名が如何に能を楽しんでいたかを想像できる装束の一つだと思いました。
④大皿
「青磁染付宝尽文大皿」(江戸時代・18世紀)(『大倉集古館への誘い』大倉文化財団・2019年発行より)
鍋島藩が将軍や大名への献上物として、特別に作らせた大皿だそうです。青磁・白・青海波文の三色の帯を重ね、そこに宝尽くし文を散らしています。
青磁の青が空で、青海波文が海を表しているのでしょう。空と海と地上に散らばる宝物の数々…。色はスッキリしていますが、豊かでおめでたい柄です。
そして裏は牡丹唐草文、高台は七宝つなぎ文…と、まさに吉祥文尽しです。
昔の日本人は今よりずっと<おめでたい>ということを重要視していたと思います。今回の展示で新春の華やぎや高揚感を味わうことができ、私もおめでたい気分になりました。
長くなりましたので、当日の着物については次回ご紹介します。
なお、新春特集展示は今月26日まで開催しています。