先週に続き歌舞伎俳優による「寄せ書きの日の丸」を取り上げます。
5.寄せ書きの俳優紹介・その2
(以下、敬称略・署名した昭和19年当時の年齢を記しておきます)
[1] 名脇役たち
⑨ 二代目中村芝鶴(1900~1981年)・44歳
歌舞伎界有数の博識で随筆集も数冊あるとか。私が見た舞台の印象は、この控えめで女性的な字のままの小柄なお婆さんでした。
⑩ 五代目澤村源之助(1907~1982年)・37歳
⑪ 二代目市川荒次郎(1899~1957年)・55歳
⑫ 八代目市川八百蔵(1896~1971年)・48歳
二代目猿之助の弟。のちに八代目市川中車(いちかわ・ちゅうしゃ)になり、映画やテレビでも活躍しました。
⑬ 三代目市川莚升(1894~1947年)・50歳
初代市川左団次の次男です。
⑭ 六代目市川壽美蔵(1886~1971年)・56歳
のちに三代目市川壽海(いちかわ・じゅかい)となり活躍しました。
⑮ 二代目市川子團次(1920~1993年)・24歳
小柄ながら舞台で光る存在の脇役で、軽妙な所作は世話物にぴったりでした。
⑯ 初代中村竹三郎(1882~1955年)・62歳
⑰ 初代坂東羽三郎(1882~1955年)・48歳
㉔ 三代目尾上多賀之丞(1889~1978年)・55歳
先週も篆書でタイトルを書いてくれた人として紹介しましたが、子供の頃大好きな俳優でした。
名前を見る度に感謝の気持ちが込み上げます。
尾上多賀之丞は昭和30年から亡くなる前年の52年まで日記を付けていました。歌舞伎界の動静、役者のエピソードや感想、社会の出来事まで書かれており、それらをまとめた本が出版されています。
リンク:大槻 茂(2010)『人間国宝・尾上多賀之丞の日記―ビタと呼ばれて』
大変興味深く読みました。
△晩年の尾上多賀之丞の素顔(『人間国宝 尾上多賀之丞の日記』大槻茂著 青草書房 より)
[2] 映画やテレビの俳優
⑱ 市川團升
⑲ 井田幸雄
⑳ 市川米十郎
この3人は生没年は不明ですが、映画やテレビドラマに出演した記録が残る俳優です。
[3] 劇作家
㉑ 金子洋文(1893~1985年)・51歳
プロレタリア文学の小説家、劇作家。
戦後社会党の参議院議員も務めました。1981年、金子氏の文芸誌『種蒔く人』創刊60周年の記事が新聞に掲載されたのを見つけ、両親は金子氏の自宅を訪ねました。
しかし88歳の金子氏は病床にあり、面会はかなわず、寄せ書き日の丸について聞くことはできませんでした。
6.叔父について
[1] どんな人?
叔父は大正13年東京に生まれました。
両親、兄(私の父)と弟、妹2人の7人家族でした。
左から二人目が叔父(12歳頃)
5歳下の叔母の話によると、人を笑わせたり楽しませることが好きなひょうきんな性格で、習字と絵が大変上手だったそうです。
大学生が次々と学徒出陣で徴兵されていた昭和19年、叔父は大学2年生でした。
長男である私の父がすでに海軍に入隊していたため、祖父は何とか次男の出征を遅らせたいと願ったようです。
叔父は大学を中退し、祖父の知人の紹介で軍需省(軍需産業強化の為に昭和18年に新設された省)に勤めるようになりました。
軍関係の仕事なら徴兵が先伸ばしされるかもしれないと思ったようです。
軍需省では秘書のような仕事をし、特に賞状その他の毛筆で字を書く仕事では重宝がられたそうです。
若い男性が少ない中、上司からはとても可愛がられ、家族も安心し喜んでいました。
ところが召集令状が来てしまいます。
[2] 出征
「赤紙(臨時召集令状)が来た時、お兄さんはニコッと嬉しそうに笑ったようだったわ」と叔母は語ります。
「友人たちが皆出征していたから、やっと自分にも……と思ったのではないかしら」とのことでした。
[3] 歌舞伎俳優との関わりは?
祖父母はじめ親戚に芝居好きの人はいなかった為、叔父も役者と付き合いなどはなかったようです。叔母は「軍需省に勤務していたことで何かきっかけができたのかもしれない」と言っていました。
叔父はなぜ、こんなにも大勢の俳優たちに名前を書いてもらうことができたのでしょうか……。今となってはまったくわからないのです。
[4] 寄せ書きは多く存在したのか?
当時歌舞伎座などの劇場は閉鎖され、芝居が出来なくなっていた俳優たちは慰問団として各地を回ったと聞いています。
私はまず、「寄せ書きはアルバイト的に行われていたのではないか?」と考えました。
もしそうならば、このような俳優による寄せ書きは他にも多く存在したのかもしれません。
でも多くの兵士は戦死して寄せ書きもなくなってしまった為か、私が調べた範囲ではそのような記録を見つけることはできませんでした。
ただ一つ言えるのは、この寄せ書きは最初にタイトルと出征兵士である叔父の名前が書かれ、署名はその後順番に書かれていることです。
つまり、「寄せ書きされた日の丸が何枚か作られ、そこに出征する兵士の名前が後から書き込まれ(販売され?)た」わけではないと考えます。
この部分でわかります。
片岡仁左衛門の名前がほんの少し左にふくらみ、叔父の名前「馨」を避けています。後からサインしたからこうなったのでしょう。
又、タイトルを書いてくれた尾上多賀之丞の息子・尾上菊蔵(1923~2000年)は、この時すでに出征していました。
息子と同じように戦地へ向かう若者に対する思いは特別だったのではないでしょうか。私は多賀之丞の篆書と署名から真心を感じています。
7.遺した言葉
子供の頃から体が丈夫ではなかった叔父は、出征時も健康とはいえなかったようです。おそらく死を覚悟していたのでしょう。
当時遺された両親宛ての手紙に「2人の妹に立派な花嫁衣裳を着せてやってほしい」と書かれていたことを叔母は覚えているそうです。
叔父は昭和20年2月に戦病死しました。
8.終戦
終戦を迎えた時、叔父以外の家族は全員無事で、長男である私の父はジョホール(マレーシア)にいました。そしてレンパン島(インドネシア)に抑留されたのち、昭和21年6月に復員しました。
叔父の死亡通知が来て絶望の中にいた私の祖父母は、父のことも諦めていたそうです。
ですから突然現れた兵士が我が子とはわからず(風貌も変わっていたため)、祖父が「どちら様ですか?」と尋ねた話は子供の頃から何回も聞かされました。
9.叔母の花嫁衣装
戦後、2人の叔母はお嫁に行きました。
[1] 昭和23年の花嫁
△叔父より3歳下の叔母
波に扇と御所車、鼓の柄の振袖です。
[2] 昭和27年の花嫁
△叔父より5歳下の叔母
鶴と波に宝船の柄です。
叔父の願い通り妹たちは幸せな結婚をしました。
10.おわりに
72年前の日章旗。
今回ご紹介するにあたり、私はまず、25人の名前を読み直すことから始めました。(以前は有名でない俳優の名前を確認する手立てがなく、両親も全て読むことを諦めていたのです)
全員の名前がわかった寄せ書きは急に息を吹き返したようで、私に語りかけてくるような感じさえします。
叔父からのメッセージが今頃届いたのかもしれません。
2回にわたり長い記事をお読みいただきありがとうございました。
当時のことや俳優の寄せ書きについて何かご存知の方はお知らせ頂けたら嬉しいです。