今日はもんぺを取り上げます。
現代ではイージーパンツとして洋装のもんぺが人気ですが、昔の袴式のもんぺは着物の上から履くたっぷりしたものでした。
また、もんぺというと戦争をイメージしますが、その頃のもんぺはどんなものだったのかもご紹介します。
1.和装の必需品 もんぺ
①もんぺとは
もんぺは現代のイージーパンツとは少し違います。
それは袴に近いものだからです。
- 和服における袴の形状をした作業着の一種
- 一般的に女性用衣類で、名称は山袴(やまばかま)、雪袴、裁着(たっつけ )、軽衫(かるさん)など、多様に呼称がある
- 季語は夏
- 太平洋戦争中に、厚生省によって「モンペ普及運動」として奨励された。
(wikipedia.orgより抜粋引用)
△喜多川歌麿の絵(wikipedia.orgより引用)
「婦人手業操鏡(ふじんてわざあやつりかがみ)」の中の「洗濯」です。
もんぺのようなものを履いた女性が洗濯しています。
②必需品として
母が掃除のときなどに着用していたもんぺの上下です。昭和40年代のものです。
「これは唐桟縞(とうざんじま)*というものなのよ」と少し自慢気に話していたので、愛着のあるものだったのでしょう。
子供の私にはこの地味な縞のどこが良いのかわかりませんでしたが…。
*唐桟縞…江戸時代中期に東南アジアから舶来し、大流行した木綿の縞柄のこと。
細番手(細糸)で織られていて独特の風合いと光沢感が特徴です。
(参考:成田典子(2014)『テキスタイル用語辞典』テキスタイル・ツリー)
△唐桟縞(出典:成田典子(2014)『テキスタイル用語辞典』テキスタイル・ツリー)
母は「地震が起きたときはこれを履いて逃げるの」と、もんぺを箪笥の扉を開けてすぐの、取り出しやすいところに入れていました。
縞が斜めになっている部分がマチで、これがあることで動きやすく、着物の上からでも履けます。
2.戦時下のもんぺ
①国民服と婦人標準服
太平洋戦争中の1940年(昭和15年)、日本国民男子の標準服として「国民服(こくみんふく)」が定められました。
そして、国民服と同様の主旨で女子に向く服装として、「婦人標準服」が1941年から1942年4月にかけて決められました。
けれども、婦人標準服は普及しませんでした。
「もともと政府は女性のために新しく特別な衣服を作ることにたいしては、資源の無駄という理由から否定的であった」と、『洋服と日本人 国民服というモード』の著者、井上雅人氏は述べています。
戦況は悪化の一途をたどり、繊維や布地は全てが軍用に回されていたために新しい服地などは調達できるはずもなく、女性が着るための生地はもうなかったのです。
そこで標準服の中の「活動衣」に指定されていたズボン型のものが、もんぺとして広まっていきました。
参考:井上雅人(2001)『洋服と日本人 国民服というモード』廣済堂出版
△男子の国民服(Wikipedia.orgより)
婦人標準服がどういうものかは、「むかしの装い ―昔のこと、装うこと―」というブログで見ることができます。
同サイトでは、婦人標準服が作られた理由として次のように説明していました。
「戦争でやがて空襲などが予想されたのですが、当時の女性の主な衣服であった「和服」は体を締め付ける帯、ひらひらして不自由な袖、乱れやすく動きにくい裾、など避難や消火活動には危険で不向きでしたので、その対策として活動に適した「婦人標準服」が必要だとされたようです」
この中のズボン型のものがもんぺとして普及することになります。
②衣料切符と「点数の歌」
1942年(昭和17年)には物資不足のために「衣料品の切符配給制」が施行されました。
背広、運動服、スカート、下着など種類ごとに細かく点数化されており、各個人に配布される切符の点数分までしか購入できず、国民は不自由を強いられました。(1人1年に都市100点・郡部80点――背広50・袷48・ワイシャツ12・手拭3など)
昭和17年の歌謡曲で、衣料切符のことが歌われています。
「点数の歌」歌 林伊佐緒・三原純子(作詞 加藤芳雄・作曲 飯田三郎)
明るく元気な曲調ですが、内容は当時の生活の不自由さを物語っています。
③もんぺの普及
昭和18年、もんぺはまだ普及していなかったようですが、昭和19年に入り空襲が本格化してくると、もんぺは国民にとって身近なものになっていきました。
もんぺは下衣(かい、したごろも;ボトムスのこと)のことを指すだけでなく、上下を揃えて同じ布で作り、合わせて「もんぺ」と呼んでいたこともあるようです。
参考:『洋服と日本人 国民服というモード』井上雅人著 廣済堂出版
②の歌にもあるように、女性が新しい生地を入手するのは難しくなり、手持ちの布や着物からもんぺを作っていたと思われます。
私は子供の頃、母や祖母の世代の人に「戦争中、絹の大切な着物をもんぺに作り変えていた」という話を聞いて、悲しい気持ちになったことがあります。
そのときのもんぺは、上下お揃いのものだったのでしょう。
男性の国民服が礼服代わりに着用できたように、このもんぺ(上下)は、当時の女性のよそ行きの服装になっていたのでしょうか。
この時代は裁縫のできる女性が多かったので、木綿では普段や作業用のもんぺを、絹の生地ではよそ行きのもんぺを手作りして使い分けていたのかもしれません。
3.当時の写真を見る
①2種類の婦人標準服(昭和17年頃)
我が家に残っていた写真です。
随分不思議な服装だと思っていましたが、これが婦人標準服だと思われます。
左は洋服型で軍服のようなデザイン。右は和服のような衿になっています。右は着物の上から着用しているようで、セットの帽子(防空頭巾)は布がたっぷり使われています。
昭和16~7年の写真だと思います。ポーズを決めて撮影している様子は、まだ戦況に余裕があったからでしょうか……ふたりとも照れくさそうな、でもまんざらではない顔つきです。(撮影場所は現在の東京・港区)
②疎開先での記念写真(昭和19年)
この写真も我が家に保管されていたものです。
昭和19年の秋頃、疎開先の八王子(の写真館?)で、親戚同士(姉妹や従姉妹)の集合写真です。
全員10~20代の若い女性たちです。みな髪を整えお化粧もしている様子で、着ているのはおそらく絹の上下お揃いのもんぺです。
明日はどうなるかわからない不安な状況下で、ちゃんとした写真を残しておこうと撮られた写真なのでしょうか。
なぜ同世代の若者だけで撮ったのかはわかりませんが、表情には緊迫感があります。
八王子は昭和20年8月2日に大規模な空襲を受け市街地の80%の家屋が焼失、死者は445人でした。(Wikipedia.orgより)
幸い、この写真の8人は無事に生きて終戦を迎えることが出来ました。
4.戦後も残ったもんぺ
①縞の紬のもんぺ
このもんぺは、3-②で紹介した集合写真の中で、左端の女性が着ているものです。
紬の生地で単衣に仕立てられています。
右に大きめのポケットが付けられています。
馬乗り袴のように大きいマチが付いています。
裾を絞っているのは、炎が入らないようにするためらしいです。
②袷仕立ての綸子のもんぺ
これは袷仕立てです。
綸子地に矢羽根文様。着物をリメイクしたものと思われます。
裾回しはそのまま裏地に使われ、マチから足の部分は薄手の木綿が付いています。
これもおそらくおそろいの上衣があり、よそ行きに着ていたものだと思います。
①②とも、残されていたのはもんぺのみでした。
上衣は新しいものに変わっても、手間をかけて仕立てたもんぺは着物生活の必需品として、戦後も大切に着ていたのだと思います。
③戦時中のもんぺに思う
3-①の標準服の写真を見て
軍服に似た婦人標準服は着用するとかなり目立つはずです。
世間に普及しない中で、この女性も実際にはあまり着なかったのではないでしょうか……。
3-②の集合写真を見て
この若い女性たちは、撮影前には子供を囲んで笑いながらおしゃべりをしていたかもしれません。
けれども戦時下の子育てが如何に大変だったかを、今の私達が想像することは難しいです。
絹のもんぺについて
絹のもんぺを手にとって見ると丁寧な仕立てで、心がこもっている感じがしました。もんぺが当時の大切な衣服だったことが伝わってきました。
綸子の着物から仕立てたもんぺにはお洒落ごころが感じられ、過酷な状況下、当時の女性たちがわずかでも「もんぺファッション」を楽しむことが出来ていたら良いと思いました。